20151226

貧しさと文化


写真は数年前、タイのチェンマイへ一人
旅した時に、ミャンマーとの国境近くまで
ガイドさんに連れて行ってもらい、
その時に訪ねた村の一つ。
ガイドさんはたしかオランダ人のおじちゃんで、
マイカーで一日アチコチ連れて行ってくれた。
英語はよくわからんのだけど、この
写真の女の子は二人の男の子のお母さんで、
タイの国籍もなく、保険もなく(病院に行けない)、
学校にも行けない状態ということだった。
(うーん、ピースサインじゃなだろ?わたし)

学校に行けないということはどういうことか?
保険を受けられないとはどういうことか?

改めてそんなこと考えたテレビ番組をみた。
といってもわが家にはテレビが無いので、
むかし録画したDVDをみたんだけど。

一つは「天空の民ブロックパ」
もう一つは「テンジンとパルキット」
どちらもヒマラヤの奥深くに暮らす
山岳民族の話。


ブロックパは現在東ブータンに暮らし
1000年近くヤクを遊牧しながら独自の
文化で暮らしてきた民族。
その暮らしが近代化の影響を受け始め、
「国を守る」という目的で突然ご主人が
軍隊に兵役させられたり、こどもたちも
少しづつ学校に入れられたりする。

もう一方はインド北部のザンスカール高地で
暮らす娘たちの話。
娘たちは二十歳になると親の決めたところへ
嫁ぐか、出家するかをせまられるそうだ。
テンジンは違う村へ嫁ぎ、パルキットは
尼僧になる。
女性が自由になるためには僧になるしかなく
また勉強するにも僧になるしかない。

どちらの話もどこまでが本当で、現実と
食い違っているのかわからないけど、
ワタシにとって少なからず独自の文化が残り、
魅力的な暮らしをしていると感じる。
だけど、貧しさから脱せようとするがゆえ
大事な働き手のこどもたちを学校に入れたり
(国の方針?)、娘を嫁がせたりすることに
納得もいかない。

「貧しさ」とはどうなんだろう?

社会活動家の湯浅学さんは
「貧困」とは経済的に苦しいだけでなく、
孤立することに問題がある、と述べている。

話が飛び飛びになるが、昨日役場で月一度の
高校支援連絡会があって、
「幼稚園や保育所に行かず、いきなり小学校は
まずいよね〜。」なんて笑って話してたけど、
その第一の理由は「集団行動」ができない事に
あるらしい。
ワタシからすれば糞食らえだけど、でも
もちろん学校で与えられた(良くも悪くも)
社会を知るってことは大事だったかなぁ、
とも思う。…かな?

でもそれって、学校とか以外に他の人と
触れる時間が極端に少なくなって、
社会を学べなくなったということの
裏返し。
じゃあ逆に、地域の大人老人たちと触れる
時間が増えれば、今あるような学校は
あんまり必要なくなるんじゃないかな。
勉強学問に関しては、したい人がそれこそ
江戸時代の寺子屋のように、田舎でも
貧しくてもできるのだと思う。
あれ?できたのかな?
いや、身分以下の穢多非人はできなかった
だろう。

理想はみんなが貧しさを保ちつつ、
誰も搾取されず、
誰もが勉強しやすい環境があること。
「経済的な貧しさ=深い地域との関わり」
になるはず。
これはただ貧しいだけで「貧困」ではない。
経済的な貧しさも「誰か」による「搾取」
でなければいい。
これって人の智恵と理性でもって
実現できないのかな。


学校に行くことは楽しいかもしれない。
将来の自分の何かのきっかけ、気付き
になるかもしれない。
だけどワタシは苦痛だった時間も長かった。
何も一概に学校に行くことがいいと限らない。

保険もそうだ。
はじめの番組ブロックパでは、精霊信仰も
深く、怪我した人(病気になった人)へは
悪霊払いをする。
それが悪とも言わないし、それが守られてる
からこそ、独自の文化も守られてる。
だけど、ちょっとした怪我や病気なら、
薬草や治療など少しの知識で、もう少し
楽になりそうなのになぁ、とも思う。
どこまでの病をどこまでの知識技術で
カバーするのかは、とても難しい。
自分自身なら決められるけど、大事な
家族人々には多くを望んでしまうかもしれない。

また持病があったり障害があったり、
「保険なんていらない。」は暴言なのかな。

ワタシが目指す「貧しい暮らし」は昔の
暮らしの知恵を活かしつつ、今の要素も
取り入れて、ただ女性が嫁ぎいかされる
だけでなく、国に兵役に取られるだけでなく、
利益のために学校に行かされることのない、
知識と行動力を持った暮らしなのだけど。

それは今にほんご教室にも来ている、
アジアからのお嫁さんや仕事しにきている
みんなにも通じる。
こんなに身近にあるのに、周りの人は
どう思ってるのかな?